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人間にとって最も幸せなことは魂の親であり、造り主である神(創造主)との和解を得ることです。
そして神との和解を得るただ一つの道は、イエス・キリストを救い主として信じて、あなたの罪が赦されることです。

一切必要ありません。東住吉キリスト集会では一般の方から献金や寄付金などを集めることはございません。
※但し、催しやイベントの中には必要経費程度の参加費をいただくことがあります。

はい。キリスト集会には牧師も神父もおりません。しかし、これは「肩書、役職名がない」という意味です。いわゆる、牧師の働きの一つ「群れを牧する、群れのお世話」している者たちはいます。「長老、責任者、牧会者…」など呼び方は様々で、呼び方を固定化しているわけではありません。私たちの集会では3人の伝道者がいますが、これも牧師になる前の役職名としての「伝道師」という意味ではなく、「先進的に伝道の働きに預かっている兄弟」という意味です。 普段、教会の中では私たちは互いにクリスチャン男性のことを「兄弟」、クリスチャン女性のことを「姉妹」と呼び合っています。イエス・キリストにあって「神の家族」とされていることや聖書の記述に基づいています。

神(創造主)との関係が回復し、神と一緒に永遠に生き続けることです。イエス・キリストを救い主と信じた人は、そのとき以来永遠のいのちが働きはじめています。一方、キリストを信じない人は、神(創造主)との関係が永遠に断絶したままです。

聖書のことば
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)

「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」(ヨハネ3:36)

神(創造主)が殺してはならないといわれるからです。

天地万物の創造者である神(主権者)が決められたことだからです。例えば、スポーツではオフサイドというルールがあります。これは理屈抜きで選手は守らなけらばなりません。ルールを守らなければ試合は成立しません。それと同じように人間の世界を創造された神がお定めになったルールだから人間は人間を殺してはならないのです。

聖書が神(創造主)のことばだと言える3つの理由をご紹介しましょう。
1)歴史的証拠
 旧約聖書と新約聖書を合わせると66巻から成る聖書は、約40人の人々の手によって書かれました。
ある人は羊飼い、ある人はイスラエルの王、ある人は漁師など、様々な職業、身分、異なった背景の人たちでした。創世記やヨブ記など初期のものは紀元前1500年頃からと推定され、新約聖書の最後の書が書き終えられたのは紀元90年頃でした。その期間は約1600年間に及びます。それにもかかわらず、聖書全体は調和と統一がとられており、矛盾や間違いはありません。この事実は、ひとりの著者が聖書を書かせた証拠にほかなりません。聖書は生きておられる神(創造主)が聖書記者たちをその息吹によって動して書かれた神のことばなのです。

 また、選民ユダヤ人が何千年にもわたって聖書を書き写し続けたため、聖書は純粋な状態で何千年も保存されたという事実や、多くの反対者たちの攻撃を受けてもなお撲滅させられることなく現代まで伝わっていることも、聖書が神のことばだと言える理由なのです。

2)聖書が示す証拠
 聖書が示す証拠とは、神(創造主)が書かれた権威ある書物であると聖書自体が語っていることです。中でも最も注目すべき点は、イエス・キリストが「聖書が神の権威あることばだ」と主張しておられることです。

「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。」(マタイ5:17) ……中略……「まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就します。」(マタイ5:18)

ここでいう律法と預言者は旧約聖書のことを指しています。このことからイエス・キリストは、聖書は決して滅びることがない、それは神(創造主)のことばだからと主張しておられるのです。

さらに、聖書全体がその内容、主題、教えなどすべてにおいて調和しており、矛盾なく統一されていることは驚異というほかありません。

加えて預言者たちが語った預言は99.9%その通りなったのではなく、100%その通り実現しているのです。これから先の預言もことごとく驚くべき正確さで、その通り成就しているのです。

3)実証的証拠
 これはあなた個人にかかわる大切な事柄です。もし聖書が神(創造主)のことばなら、書かれた通りになるのですから、自分自身で実験して実証することができるというものです。具体的に言いますと、聖書には次のような有名なことばがあります。

「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。あなたがたも自分のこどもがパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。」(マタイ7:7-9)

 つまり実証的証拠とは、あなた自身がこの聖書のことばに基づいて、「聖書が神のことばかどうかがわかるように祈りという方法で神に求める」ということです。また、聖書のことばに従って「聖書が神のことばかどうか捜し求めること」なのです。さらに「聖書が神のことばかどうかわからないという妨げの扉をたたき続ける」ということです。自分自身に聖書のことばを当てはめ、そのように行動するなら、生きておられる神(創造主)ご自身が、動かすことの出来ない方法であなたに確証を与えて下さるのです。
 但し、いたずら半分にこのことをしても答えはありません。あくまでも真摯な心、真面目な気持ちで神(創造主)に求めていただきたいのです。

神が造られた自然界に注目することによって理解できます。優れた製品には優れた開発者がいるように、自然界という極めて優れた作品に注目することによって極めて優れた創造者である、神を知ることができます。

聖書のことば
「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。」(ローマ1:20)

Category: 神について

矛盾しません。超一流の科学者の中にも神の存在を認めている人たちが大勢います。そもそも科学ということばの定義があいまいなら答えは出せませんが、科学的な実験結果ということであれば、神の存在を科学的な実験で証明することは出来ません。神の存在は科学的というよりも論理的に考える必要があります。そして論理的に考えるなら神は存在するという結論になります。

Category: 神について

これはキリスト教の悲しい・恥ずべき歴史です。もともとはカトリックもプロテスタントもありませんでした。しかし、聖書の教えからズレていく教会を見て、自分たちこそ正統な(カトリック)教会であると主張したり、カトリックに反発(プロテスタント)して、自分たちこそ正統な教会であると主張する流れの中で、カトリックやプロテスタントが生まれてきました。

東住吉キリスト集会は、ルターやカルバンの宗教改革に端を発するプロテスタント系の集会(教会)ですが、「聖書の教えに従っていきたい」ということを大切にしています。

神(創造主)は人間を「神に似せて」(創世記1:26,27)「非常に良い」(創世記1:31)ものとして造られました。
同時に神は人間に「自由意志」(選択の自由)を与えられました。最初、人間には罪はありませんでした。後に人間は自らの意志で神に反逆し、罪を犯したのです。罪の責任は神にはありません。自由意志を濫用(間違って使用)した人間の側にあります。

※自由意志(選択の自由)には、反逆という罪と、罪に対する責任が伴います。

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神(創造主)が聖書を通して示された(啓示された)救いの方法が、イエス・キリストの十字架と復活だったからです。

宗教は救いの方法を人が自ら探し、作り出そうとします。しかし、神(創造主)は救いの方法を聖書を通して人間に啓示してくださったのです。その救い主がナザレのイエス・キリストであり、その方法が十字架と復活なのです。

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