神(創造主)が殺してはならないといわれるからです。

天地万物の創造者である神(主権者)が決められたことだからです。例えば、スポーツではオフサイドというルールがあります。これは理屈抜きで選手は守らなけらばなりません。ルールを守らなければ試合は成立しません。それと同じように人間の世界を創造された神がお定めになったルールだから人間は人間を殺してはならないのです。

クリスチャンも完全に「理解」しているわけではありません。しかし、聖書全体で、神は「父なる神・子なる神・聖霊なる神」という三位でありながら唯一の存在であることが示されています。そこで神のご性質の一つとして三位一体を「信じて」います。
  神は人間の理解をはるかに超えた方です。ある人は「人間の理性で納得するような形で存在しなければならない義務を神は負っていない」と表現しています。いずれにしても三位一体は、人にとっては神に関して「意味が解らない」最たる例と言えるでしょう。「過去・現在・未来」で成り立つ「時」や「時間・空間・物質」で成り立つ「世界」など、「三つの独立した面がありながら、一つであるこの世界」の事象を用いて説明を試みる人もいます。確かに参考にはなりますが完全な理解は不可能です。「聖書が語っているので受け入れ、信じている」というのが私たちの言える確実なことです。

確かに人間は多くの神々を産み出し、神に代わる思想・哲学を考え出しました。聖書はそのような人間の性質を「神の形に似せて造られた人間の特性」と語ります。本物の神がおられるからこそ偽物もたくさん出てきました。人間が感じる以上に、人間を遙かに超えた神がその存在を示されました。被造世界(自然、宇宙、人間など)の精密さや、聖書預言の実現などを通じて、神ご自身がヒントを与えられたので、私たちは客観的に調べることができます。(ローマ1:20、Ⅱペテロ1:20-21)

神が造られた自然界に注目することによって理解できます。優れた製品には優れた開発者がいるように、自然界という極めて優れた作品に注目することによって極めて優れた創造者である、神を知ることができます。

聖書のことば
「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。」(ローマ1:20)

矛盾しません。超一流の科学者の中にも神の存在を認めている人たちが大勢います。そもそも科学ということばの定義があいまいなら答えは出せませんが、科学的な実験結果ということであれば、神の存在を科学的な実験で証明することは出来ません。神の存在は科学的というよりも論理的に考える必要があります。そして論理的に考えるなら神は存在するという結論になります。

神(創造主)は人間を「神に似せて」(創世記1:26,27)「非常に良い」(創世記1:31)ものとして造られました。
同時に神は人間に「自由意志」(選択の自由)を与えられました。最初、人間には罪はありませんでした。後に人間は自らの意志で神に反逆し、罪を犯したのです。罪の責任は神にはありません。自由意志を濫用(間違って使用)した人間の側にあります。

※自由意志(選択の自由)には、反逆という罪と、罪に対する責任が伴います。