9/22
昨晩あまり寝ていない私たちのために姉妹たちが手伝いに来てくださいました。
私たちに代わって家内を見守ってくださいます。私たちはその間に少しでも仮眠を取ることにしました。しかしなかなか寝付けないまま時間ばかりが過ぎて行きます。
長男が横になりながら「寂しいな」と漏らしました。
私も言いました。「寂しいな」
「お父さん。寂しさはどうやって乗り越えて行くの、疑いはどうやって越えて行くの、悲しむべきでないことを悲しいとしか思えない時にはどうやって愚かさから解放されていくの?」
「天国を覚え天国での事を考え天国の王を想うことだよ」 私たちは今までにない本音の話を打ち明けあいました。
父と息子の本物の対話を明らかにすることはできません。とてもプライベートなことに踏み込んだ、相手に対する信頼がなければまず口に出来ない内容でした。私はしっかり聞き私も自分の弱さを告白した時互いに主にある深い深い結びつきを実感しました。
午前中各地からお見舞いに来てくださいました。昨日のブログ内容を見ていてもたってもおれなくなった兄弟姉妹が飛び込んで来られました。 N兄が涙ながらに家内に呼びかけ祈ってくれました。ありがたきかな、キリストにある友情。長男がそれを見て僕もあんなキリストにある親友が欲しいと言いました。 お見舞いの兄弟姉妹が来られるたびに私たちは大量の涙を流すので泣き疲れました。どうしてこんなに涙が出るのか訝しく思うほどです。 彼女の息づかいはだんだん深く荒くなっていきます。血圧は40に下がり体温も上がっていきます。その都度ホスピスナースは対応策を講じてくれました。
昨日から子どもたちはずっとお母さんに寄り添っています。しかしどれだけ寄り添っても寄り添っても彼らにはまだお母さんのためにやりつくしていない何かがあると感じていました。 お母さんに謝りました。感謝しました。約束しました。身体を擦りました。甘えました。でもまだ何かをしていない。 一体なんだろう。何をやり残しているのだろう。 もしお母さんの身体が元に戻ったら何を望むだろう。
長男が言いました。「礼拝だ」そうか!それだ!と皆合点しました。みんな心の底から主を礼拝させていただきたいと願いました。 ご聖霊は悲しみを乗り越えて行くための秘訣を私たちに示そうとされたのだと思います。悲しみを越えていく秘訣とはなんでしょうか。悲しみをもって主を崇めることです。悲しみをもって主に祈るのではありません。痛みをもって主に助けを訴えるというのとも少し違います。悲しみをもって主を礼拝するのです。 私たちはそれぞれ静思を40分ほど持ちました。くちびるの捧げ物を用意するためです。そして昼間の2時半くらいから私たちはまたしてもベッドの回りに集まりました。
見舞い客の兄弟姉妹も交え主を覚える礼拝に臨みました。二人の息子たちの礼拝は主からのものでした。なぜなら彼らは悲しみで一杯になりながら主を崇めずにおれないでいたからです。彼らは嬉しいから礼拝しているのではありません。悲しみをもって主に近づいて行きました。否、悲しみをもって主にしがみついたのです。悲しみが彼らを主に押し出しました。私とて同じです。今まで生きてきてこんなに悲しいことはありませんでした。今まで生きてきてこんなに涙が止まらなくなることは初めてです。しかも涙が出ていったあと放心状態になり身体が置物のように動かなくなります。魂の貧血状態。涙は魂という臓器から流れ出る色の着いていない血液だと思います。
「主よ。この呼びかけを私の口に授けておられるあなたを崇めます。あなたが願った通りにしてくださらなかったためにラザロを死なしてしまったマルタとマリアがようやくイエス様にお目にかかった時彼女たちの呼びかけは、主よ、でした。祈りが届かぬように見えた時にそれでも彼女たちにとって主よとお呼び出来るのはあなただけでした。叶えられなかった現実の只中で主よと呼んだ彼女の気持ちは今の私の心そのものです。その信仰による呼びかけをあわれみ深いイエス様はどのように聞いておられたか、崩れてしまいそうな彼女たちの心をどのようにご覧になっていたことか、そして彼女たちの考えを超えて主は何と文字通り主であられたことでしょうか…」
まるで2000年前の記事がこの病室の中でたった今目の前で再現されているような神の現実を私たちは味わいました。「イエスは涙を流された」 悲しみをもって神の前に出るとき悲しみの人で病をになった主イエスさまとの聖なる連帯感に入りました。そしてこの方のなさることはこれでよいのだと言うことが出来るのです。痛みや悲しみが癒されるために礼拝するのではないのですが礼拝者として主に近づくと恵みの副産物として悲しみが癒されていきます。
人生において不可解な事が起こるとき「主よ、何故なんですか?どうして家内なんですか?なんでこうなさるのですか?」と問う自由が許されています。詩編にはこのような魂の叫びが連面と続きます。しかしその結論は逆転的です。実は私が神に何を期待するかにこだわり続けているとガッカリすることが多くなるだけではなく神さまが分からなくなってしまいます。そうではなく神がこの試練を通して私に期待しているはの何かを祈りつつ考えて行くことに答えに至る道筋があるのかもしれません。私たちが神さまに問い質すのではなく私たちのほうが神さまに問われている側なのだという事です。
病院の門限である8時が過ぎると私たち家族だけになりました。ベッドの回りに集まって姉妹たちが届けてくれた弁当やパンを広げ最期の晩餐をしました。話題は目の前のお母さんのことばかりです。みんなお母さんがよく見える席を作って幸せを噛み締めながら食事をしました。その時ドアがノックされました。入って来たのはO姉妹でした。ターミナルケアの看護師で夜勤明けの足で駆けつけてくれたのです。6年前お母さんを天国に送った彼女は娘の事をとても心にかけてくれていました。入って来るなり涙で一杯です。自分のお母さんの事が重なったからです。T姉妹、ありがとう!と呼びかけました。 何がありがとうなの?実はお母さんが召される前にこう言われた事で分からなくなっていたことがあったと言うのです。「私は子どもたちのことは心配してない」がそれです。子どもとしては自分の事を親から心配して欲しいのにどうして心配してくれないのか、お母さんは何故そういったのか釈然としないままになっていました。しかし先日のブログにあったT姉妹の言葉でそうか!とわかりました。T姉妹も子どもたちが大きくなるのを見届けたいという執着心はない、その理由は主が清い器、大きい器、幸いな神の器にして下さると分かったからですね、主は断腸の思いで母親が委ねた子どもたちを必ず大成させてくださると確信したからですねの母が言いたかったのはこの意味なんだと腑に落ちた時には嬉しかった! 私はまたしても慰められました。
智恵美、良かったなぁ。
君の言葉が若い姉妹の心を照らすために用いられたんだぞ。
誰かの役に立てたという事がこんなにも生きる力になるとは。感謝です。O姉妹も夕食の輪に加わりみんなで楽しい夕食をしました。とても賑やかで明るく楽しい食事です。そこにいる全員がこれから起こる事を知っていました。なのにみんなで食事をしているのです。娘はサンドイッチを人切れ口にするとごちそうさまをしました。そしてベッドサイドに膝まづきお母さんの右手を握りしめ温め始めました。
突然彼女の息が荒くなりました。顎が上がっています。すぐにナースコールをしました。ナースは血圧を図りましたがもう計測できません。
「みなさん今のうちにお話ししてあげてください。もうお薬を入れることはできません。このままゆっくり閉じていかれます。今Tさんは聞こえています」私たちは彼女の手を取りました。
次男はお母さんを呼びました。
「お母さん!僕たちの事を見届ける前にこの子達なら大丈夫って言ってくれてありがとう!そんなにも信じてくれた人はお母さんだけや!僕はお母さんの生きざまを継ぐ。お母さんが大切にした礼拝を大切にする。お母さんの姉さん一家の救いのために人生を賭ける。お母さんに恥じない生き方が出来るようにイエス様に祈っててな!お母さん!凄すぎるよ!」
娘も涙ながらに彼女を呼びました。
「お母さん!大好き。私はお母さんが大好き。今まですねた態度をとったりしたのにそんなことではびくともしなかったお母さんが大好き。産んでくれてありがとう!育ててくれてありがとう!愛してくれてありがとう!私はお母さんみたいになる。今日午前中O兄が言ってたのを聞いたでしょ。朝学校に行くときさよならって挨拶する人はいない。行ってきます、行ってらっしゃいだと。また会えると分かりきっているからさよならって言わないんだと。だからクリスチャンの地上でのお別れはさよならじゃなくて行ってきますがふさわしいって。だからお母さん行ってらっしゃい!また天国で会えるのよ! 私が今泣いてるのは悲しいからじゃないんよ。また会えると信じれてうれしいから泣いてるのよ。私はこれから主のご再臨を本当に願っていける人にされたんよ。その時にはお母さん!私を抱いてね!お母さんが天国に行った翌日私は天国にいける。だって神の前には1日は千年のようであり千年は1日のようですとあるでしょう。お母さんがいったあと何年間も地上にいてもきっと1日だけのお別れに感じさせてくださる力をイエス様が与えてくれるから。お母さん、お母さん、私のお母さん!愛してる!」
長男も語りかけてごらん、と言いました。
しかし彼はお母さんにとりすがって大声で母にではなく主に祈り出しました。「主よ!この光景をご覧ください。僕たちがどんなにお母さんを愛してるか、見てください。僕たちはこのお母さんが人生最大の大切な人なんです。主よ、あなたはそれをご存知でしょう。でも僕たちはこのお母さんをあなたにおささげするのです。天国があるとはっきりわかりました。この御国があると信じているならその御国のために命をかけて生きれるように僕たちを守ってください!何が一番大事なのか分かった以上福音の道に生涯をかけて生きさせて下さい!主よ、僕のお母さんは最高です!僕のお父さんは最高です!弟は最高です!妹は最高です!こんな家族に生まれさせてくださったあなたは誰よりも最高です! お母さん。愛してる。どんなに言ってもいいたらないよ!」
私は彼女のおでこに接吻しながら言いました。
「今の言葉を聞いたか?これが聞けるお母さんは恵まれたお母さんやで!君は去る。しかし君が育てた彼らは残る、君によって一人前の男になった俺も残る、君の人生は君一代限りの物語じゃない!君の人生で始まった俺たちがついでいくぞ!
主よ。イエス様は十字架の上で『父よ。我が霊を御手にゆだねます』とおっしゃって息を引きとられました。主は死の手前で回復することによってではなく死に切る事で神の栄光を現されました。瀕死の重傷からの回復ではなく死からの復活のほうが比べ物にならない神の栄光だからです。死んで蘇らされた方のおかげで私たちは死に対する勝利をいただいたのです。彼女が回復するよりもっと偉大な神の栄光があるからこそあなたはこれを許されました。私たちはそれをこの目で見たいのです。この結末が如何に美しい神の栄光となるのかを私たちに必ず見せてください!」
アーメンの声が部屋に響き渡りました。
そして主我を愛すを歌いました。
彼女は苦しむことなく主の元に行きました。
あまりに早かったのエノクを見ているようでした。
9月22日午後9時02分 のことでした。
エノクのごとくに我をも上に引き上げたもうまで日々主と歩まん。一足 一足 主にすがりて 絶えず絶えず 我は進まん!
高原智恵美姉妹 万歳!
Filed under: report on 9月 23rd, 2009 | コメントは受け付けていません。