「東住吉キリスト集会」の信条

1.私たちは、聖書(旧新約聖書66巻)が神のことばであることを信じます。

2.私たちは、唯一の神が天地の創造主であることを信じます。

3.私たちは、ひとり子の神である主イエス・キリストが、十字架での死によって、私たちの罪のあがないをしてくださったことを信じます。

4.私たちは、主イエス・キリストが、十字架で死んだのち、墓に葬られ、三日目によみがえり、天に昇られ、時が来れば私たち信じるものすべてを天に引き上げてくださることを信じます。

5.私たちは、主イエス・キリストが、今私たち信じるすべての者に神なる聖霊を与えてくださっていることを信じます。

6.私たちは、父なる神、子なる神、聖霊なる神が三位一体であることを信じます。

7.私たちは、集会(エクレシア)が聖霊の主権のもとで一人ひとりの聖徒に与えられた賜物にしたがい、人間的に制度化されたものではなく、キリストの体として建て上げられることを信じます。

信仰の基準

キリスト教では初期の時代から信仰の基本的な内容を明確な言葉で表現してきました。これを信条(ラ・英credo, 英creed)と呼び、有名なものでは使徒信条、ニカイア・コンスタンチノープル信条、アタナシオス信条などがあります。

宗教改革を経てプロテスタントが成立すると、「信仰告白」という言葉や、「宣言」「信仰問答」といった術語も用いられました。

いずれにしても、これらは教会(集会)における信仰の基準を定め、文章として定式化したものといえます。

東住吉キリスト集会の信条の位置づけ

私たち東住吉キリスト集会は、キリスト教の教会(集会)として、他のキリスト教会(集会)同様にキリスト教の基本教義を受け入れており、それを基礎としています。

しかし、残念なことに、歴史上のさまざまな経緯から同じくキリスト教といっても、いわゆる宗派・教派によって微妙な相違が生じてしまっています。例えば、カトリックではイエス・キリストを宿したマリヤに特別の意味を見出しますが、プロテスタント教会では一般にはマリヤにそれほどの重きは置きません。プロテスタント諸派のなかでも、それぞれに聖書の解釈や重点の置き方が異なっています。

そこで、私たち東住吉キリスト集会は、教会(集会)としての立場を明らかにするために、上記7か条による独自の信条を定めています。

私たちは、この信条に基づく私たちの信仰こそ、イエス・キリストが人としてこの地上にあったときに直接人々に触れて教えられた信仰に最も近く、かつ、父なる神やイエス・キリスト、あるいは聖書に最も忠実なものであると考えています。

教会(集会)独自の信条の必要性

私たち東住吉キリスト集会は、キリスト教の正統的な信仰の堅さや聖書の理解において、日本および世界各国のキリスト教会(集会)に劣るところはなく、むしろリードするものであると自負していますが、人間の歴史においてはそのような自負は時に勝手な解釈や正統な信仰からの逸脱につながりかねないものです。

教会(集会)の信条を文書として定めることにより、信仰生活や学び、聖書解釈、福音伝道がその枠内で行われることが保証され、逸脱が回避されます。

また、日々の信仰生活においてこの信条を振り返り、再確認することにより、自分たちの信仰のあり方を反省し、得心し、また、より良いものへと変えていくことができます。

教会(集会)のガバナンス

私たち東住吉キリスト集会は、プロテスタントとしてローマ・カトリック教会のような信徒間の階層性を否定します。しかし、プロテスタント諸派の多くもまた牧師制度をとっており、牧師と一般の信徒との間に現実的な階層の差が認められます。

私たち東住吉キリスト集会は、制度としての牧師をなくし、全信徒が平等な立場になるように制度構築しています。とはいえ、それぞれの信徒には賜物の違いがあり、また、世俗の職業を放棄して教会(集会)の専従者となった伝道者も複数名おり、教会(集会)の運営に直接の責任を負う責任者グループも存在します。

そのような観点からは、教会(集会)内において一部の信徒が学びや福音伝道に大きな影響力を及ぼす事態も想定されます。

しかし、教会(集会)として信条を定めることにより、そのような者が勝手な解釈や逸脱を行って、教会(集会)全体の方向を誤らせる事態を防止できます。つまり、教会のガバナンスにおける働きを期待できます。